心のこもっていないサービスはサービスではない。そう言い切るザ・リッツ・カールトン大阪は、全従業員が同社の哲学や行動指針を記載した「クレド・カード」を携帯していることでも知られている。しかし意外にもサービスのサイクルは従業員満足から始まるのだと言う。その真意に迫る。
従業員満足→顧客満足→オーナー満足
「サービスのサイクルは従業員の満足から始まる」と、人事部長 橋本裕之氏は語る。ホテルには①インターナル・カスタマー(内部顧客)=従業員と、②エクスターナル・カスタマー(外部顧客)=顧客が存在し、①の満足が獲得できて初めて②の満足を得ることができ、それがオーナーの満足(=収益)につながっていく。これが、リッツ・カールトンの経営理念におけるサービスのサイクルであり、すべての始まりは従業員満足と考えられている。以下に、この理念が、実際にいかに具現化されているのか、その詳細を解き明かしていこう。従業員満足について語る前に、まず同社がどのような人材を採用し、訓練を施すかについて説明しよう。
「(T+F)×I=G」。 なぞ解きのようなこの計算式は、従業員をホテルの成長に結び付けるための独自の方程式だ。T(Talent)はタレント=資質/才能を表し、F(Fit)は適材適所を、I(Investment)は投資=トレーニングや、給料・福利厚生、そして素晴らしい行いは褒め、従業員としてふさわしくない振るまいはたしなめるという、従業員に対する関心・認識を示す。TFIの三拍子が揃って初めてホテルの成長=Growthにつながる、というコンセプトである。この方程式は、従業員に素質がなければ、どんなに素晴らしい教育も、多大な投資も無に帰すことを示している。つまり、教育、トレーニングをうんぬんする前に、まずはサービス業に適した人材をいかに見極めるかが重要なのである。
サービス業の資質は3歳で決まる
「サービス業には向き不向きが確実に存在する。相手の心理を読み取りそれを自らのサービスに転化する能力は、実は3歳くらいまでに形成され、生涯変わることがない。そこで、天与の才と言えるこの能力を見抜くために、心理学者と共同で作り上げた採用試験QSP (Quality Selection Process) を活用している」(橋本氏)。具体的には、ケアリング、サービス、チームワーク、リーダーシップなど、11のテーマに沿った質問を行い、その回答によって素質を見極める、というものだ。学歴、年齢、性別、国籍、職歴は一切問わず、どのようなポテンシャルを持っているかのみを判断するという。
おおよその設問数は、一般スタッフ55問からディレクタークラスの約100問まで幅広い。対面方式で行うこともあるし、海外在住者の場合は電話を活用することもある。設問内容は社外秘となっている。答えには正解・不正解はなく、その内容によって返答者の生まれ持った能力、性格、信念などを分析していく。その結果により、その人がホテルというサービス業に適しているか、適しているのならどのような部門の仕事が本人にとって一番幸せで、また適正かなどを判断していく。このテストの合格率はおよそ2割。1997年5月の大阪店の創業時には、約4,000名の応募者から約600名を採用した。
テクニックよりフィロソフィー
新規スタッフには、まず2日間のオリエンテーションで徹底的にサービス哲学を叩き込む。この期間はテクニカルなことは一切度外視して、「クレド(信条)にもとづく心のこもったおもてなし」に始まる価値観、理念、フィロソフィーの理解を求めていく。3日目以降は図表1に示す通り、約100のポジションで約100名の認定されたトレーナーからOJTで教育を受ける。なお、「資料」には、マニュアルと職務記述書が含まれる。後者は、職務の範囲や必要とされる資格、業務報告を誰に行うかなどを詳細に記述した資料である。
一通りの訓練が修了した後は、毎日行われるラインナップ(朝礼)やAnnual Re-Certification(年間再認定)を通した教育が行われる。ラインナップでは、業務開始前の30分で、クレド・カードに記載された「20のベーシック」(行動指針)を、1日ひとつずつ順番に確認する。また、ワシントンの本部から送られてきた情報・客室稼働率・その日到着するVIP情報などをまとめたA4版10ページ程度の資料も活用する。年間再認定は従業員に対して総支配人(GM)が理念や哲学を直接語りかけるミーティングで終了する。双方ともに重視されているのは、貫くべき理念や、クレドがどのような意味を持つのかを再確認することだ。例えば、「クレド・カードにはこういうことが書いてあるが、それはあなたにとってどのような意味を持つのか」を問いかけ、「最近、この内容に沿ってどのような行動を起こしたか」などと質問することで、クレド・カードを単なる文字の羅列から、従業員一人ひとりの心に息づく「信条」にまで深化させていくのである。こうしたディスカッションは、入社時に誰もが持っていた高いモチベーションを再び喚起する役割も果たしている。
従業員に対する投資=Iの重視は、それ自体、従業員の満足度を押し上げるが、同社の試みはこれにとどまらない。橋本氏は、「何か不満があるときに黙って抱え込んではいけない。仮眠室の設備、食事、労働時間など、何でもいい。改善すべき点があればそれを伝えるべき」と語る。従業員専用の食堂に投票箱を設置して従業員のコメントを求めるだけではない。GMの部屋のドアも、マネジャ-の部屋のドアも、いつでも従業員を迎えるために開け放っておくという、「オープン・ドア・ポリシー」を貫き、コミュニケーションを図ろうとする経営陣の意思を強く示している。また、同社では米調査会社PRA社に年一度の従業員満足度調査を委託。企業の価値観、リーダーシップ、職場環境、福利厚生など、全96問にわたって大変満足から不満足までの5段階評価を行う。調査結果は各ホテル別、職場別、質問項目別に集計され、改善へと活かされる。
全従業員がおもてなし
企業理念を自らの理念に変えた従業員が顧客に提供するサービス。それはどのようなものなのだろうか。同社は、フロント、ドアマン、ハウスキーパー、ウエイター、ウエイトレスなどの顧客接点の担当者だけではなく、人事、経理、そしてメンテナンスを担当するエンジニアなど、全従業員が心のこもったおもてなしと顧客の要望に則した問題解決を求めている。例えばメンテナンス担当者が、作業中に迷っている顧客を見かけたら、作業を中止した上で「何かお探しですか」と声をかけ、「レストランを探している」との回答があれば、「それでは私がご案内いたしましょう」と、積極的に顧客の問題を解決するなどだ。こうした問題解決に向けた取り組みは、外部顧客=宿泊客に対して行うだけではない。キッチンを担当するシェフにとっての顧客はウエイターやウエイトレス、人事担当者にとっての顧客は全従業員であり、インターナル・カスタマーの満足度アップのために問題解決に当たる努力が要求されるのである。従業員同士がサービスを提供し合い、互いを大切に扱うこと。これも、モチベーションを維持するための重要なポイントとなる。
また、単なる「機能」から脱却した「目的」の達成も重要という。フロント担当者が果たすべき機能はチェックインとチェックアウト時の会計だが、そこに潜む真の目的は、心からの歓迎と感謝の気持ち、そして再会の願いを顧客に伝えることにある。おもてなしをしなさい、笑顔で対応しなさいという指示だけでは、こうした目的の遂行は難しい。だからこそ、従業員が自らの意思と信念で理想的な行動を起こせるまでの理念の浸透が重要な意味を持つのである。
顧客の嗜好は世界で共有
このほか、「ゲスト・ヒストリー・システム」による全社共有のデータベースが活用されている。クレド・カードの中の「20のベーシック」は「顧客の趣味趣向について全従業員が顧客の好みを発見し、それを記録すること」を定めており、これを実行するためのシステムである。実際には、顧客の名前と好みを「ゲスト・プレファレンス・パッド」と呼ばれるメモ用紙に記入し、各フロアに設置された投函箱に入れるというシンプルなものだ。担当者がメモを随時回収、データ入力して全世界で活用する。例えば、大阪に宿泊中、硬い枕が欲しいとの要望があれば、この顧客が世界のどのリッツ・カールトンに宿泊しても、硬めの枕を用意することができる。もちろんデータをどう活かすかは従業員の力量にかかっている。同じ顧客であっても急いでいる時、ゆとりのある時では求めるサービスが異なる。同一人物でさえその時の状況によって求めるサービスが異なるのだから、年齢、性別、国籍、民族が異なる顧客の要望を察知し、問題解決を図るのは容易ではない。状況によって顧客のニーズを見分ける感性。これこそタレントであり、だからこそ、この資質の有無の見極めが大切なのである。
顧客満足度調査は、米ギャラップ社に委託して行っている。毎月1回、無作為に抽出した一定数の顧客に対して質問を行い、5段階の満足度で答えてもらうものだ。結果は毎月各ホテルにフィードバックされ、各ホテルごとに対策を立てる。毎月、満足度の低さが指摘されるような場合には、プロジェクトチームを結成し、セクションをまたいだ調査を行った上で改善策を講じていく。例えばフロントの処理が遅い場合でも、フロント担当者に問題があるとは限らず、もしかすると客室係に原因があるかもしれない。これが組織横断的な対処が求められる所以である。
客観的数値がよりよい問題解決を生む
橋本氏は、「従業員満足度も、顧客満足度も、定期的に数値で測定する必要がある。“良くなったようだ”“悪くなったようだ”と感覚で話をしても、適切な改善策にはつながらない」と語り、継続的な定点調査の重要性を指摘する。問題発見とその解決策を通してこそ、両者の満足度が向上し、結果としてオーナーの満足=利益に結び付くという姿勢を貫く。その証左として、マネジャーに対する評価法が挙げられる。例えば営業担当マネジャーであっても、予算達成は評価の3分の1にしか当たらない。これに加え、従業員満足度が3分の1、そして顧客満足度が3分の1の割合で評価される。つまりマネジャーはサービスサイクルの全課程を満足させることを求められているのだ。
もちろん、そこにはさまざまな矛盾が存在する。例えば、顧客満足のために人員を増やせば利益が圧迫され、反対に利益を上昇させるために人件費を節約すれば従業員満足度が下がると考えられる。しかし、矛盾と承知の上で、バランス感覚をもってこれに挑む能力が、マネジャーには必要なのである。
オープンから6年を迎えた同社の全顧客に占めるリピーター率は約40%。橋本氏は、これを70~80%へ引き上げたいと語る。しかしそれは、顧客生涯価値を伸ばして収益に結び付けるためではない。「何度もご利用いただければ、それだけ顧客情報を収集することができ、よりよいサービスが実施できる」(橋本氏)ためである。この言葉は、サービスのサイクルはオーナーを満足させる「利益追求」から始まるのではないと経営理念にうたう、同社の姿勢を端的に表していると言えるだろう。