ハリファックスお土産話:父が若き日に留学した地を訪ねて

2025年1月6日
■父の母校の見学に、観光に、タウンウォッチングにと5日間にわたりフル稼働
2024年12月3日~10日、カナダは東海岸にあるノーバスコーシア州の州都、ハリファックスに行ってきました。亡父が留学した神学校があるハリファックスは、私がいつか訪れてみたいと思っていた地。旅慣れた友人たちに「何もこの寒い時期にそんな寒いところ行かなくても」と言われながらも、幼い頃に父から聞いた針葉樹に雪が積もった美しい風景とか、クリスマスの朝に寄宿舎のドアを開けると、ドアノブにお菓子をギッシリ詰め込んだ靴下がぶら下げられていて、それが明治生まれの父にとって初めてのクリスマスプレゼントだったという話が、私をこの季節のハリファックスへと駆り立てたのです。

初日は夜遅くに到着したので、実質的に稼働したのは2日日から。この日は、午前中に「Canada’s Immigration Museum(移民歴史博物館)」を見学、名産の蜂蜜をあしらったケーキとコーヒーで軽いランチを済ませ、午後からは1803年に造られて今なお時を刻み続ける「Old Town Clock」や1749年にイギリス軍の海外海軍基地として小高い丘の上に建てられた「Halifax Citadel」を訪問。シーフードのグリルで知られるレストランで早めの夕食を取った後、ウォーターフロントで開催されていたクリスマスマーケットを一巡してホテルに戻りました。

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ハリファックスのシンボルとも言える「Old Town Clock」と「Halifax Citadel」は、父の留学時代からこの街を見守っていた
ハリファックスのシンボルとも言える「Old Town Clock」と「Halifax Citadel」は、父の留学時代からこの街を見守っていた

3日目は、天気予報では雪だったにもかかわらず、目が覚めれば表はひどい雨。父の母校のエグゼクティブ・ディレクターであるBrendaがホテルまで迎えに来てくれて、車で10分ちょっとのキャンパスに向かいました。同校は父の留学当時は「Pinehill Divinity Hall」という名称だったものが、宗派の異なる3校が合体したことで、「Atlantic School of Theology」に名称変更されたとのこと。あいにくのお天気の中、車中から一面の芝生にレンガ色に統一された建物が点在するキャンパスを眺めた後、チャペルに入り、今回の旅行のお目当てのひとつだったクリスマス礼拝の開始を待ちました。

礼拝はハイブリッド型で運営されており、オフラインまたはオンラインで牧師さんのお話を聞いた後、ピアノとヴァイオリンの伴奏に合わせて皆で賛美歌を歌うというサイクルを話者の数だけ繰り返すスタイル。私自身はクリスチャンではないことに加えて英語力の限界もあり、お話をすべて理解することはできませんでしたが、父が主催していた家庭集会でもよく歌われていた「ああ、ベツレヘムよ」で始まる賛美歌だけは、ディスプレイに映し出される英語の歌詞を見ながら、一緒に歌うことができました。

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塀も柵もない一面芝生のキャンパスに置かれた現在の校名を記した看板と、敷地内のこじんまりしたチャペル
塀も柵もない一面芝生のキャンパスに置かれた現在の校名を記した看板と、敷地内のこじんまりしたチャペル

礼拝終了後、再びBrendaの車でこの地で古くから営まれているホテルへ。そこで同校の歴史を取りまとめているDavidと落ち合い、3人で遅いランチを共にしながら、父の留学当時の様子をお伺いしました。父は日本の母校である関西学院大学の推薦により、1938~1941年(28~30歳当時)の3年間、奨学金をいただいて留学しており、夏休みにはカナダ各地の教会を回って「United Church of Christ(キリスト連合協会)」のミッションについて話をしていたそうです。Davidによれば、夏休みを利用してのこの活動は、奨学金に対する父なりの返礼だったのではないかとのこと。

Davidが手渡してくれた父に関するファイルには、留学当時の経歴に加えて、寄宿舎の部屋番号や履修コース、卒業写真や卒業時の新聞記事までが収められており、80年以上前の留学生の情報をここまで集めてくださったのかと頭が下がる思い。しかし、同校を卒業した父は、その後に開催された按手式に出れば牧師としての資格が得られたものを、式当日には姿を現さず、その後の足取りは辿れなかったそうです。父が同校を卒業した1941年と言えば、日本が第二次世界大戦に参戦した年。日本に批判的な先生もおられる中、ギリギリのところで帰国の道を選んだのではないかとのことでした。

注:父が亡くなった後に出版された著書『イエスの譬ばなし』(グロリヤ出版、1981年)のプロフィールには、「『帰国して日本の同胞と戦時の苦労を共にし敗戦後(敗戦を見通していた)の日本に福音を伝える』と言って帰国」と記されている。

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父の卒業式が行われた街の教会「St.Matthews United Church」は、1794年にプロテスタントの本拠地として設立された
父の卒業式が行われた街の教会「St.Matthews United Church」は、1794年にプロテスタントの本拠地として設立された

4日目は、BrendaとDavidのお二人に案内していただいて、父の卒業式が行われた「St.Matthews United Church(聖マシューズ合同教会)」を見学。これは1749年にプロテスタントの本拠地として設立された教会で、礼拝堂に設置された大きなパイプオルガンが印象的でした。2フロアに渡る内部を見学した後は、最寄りのカフェで休憩。職場に戻るというBrendaと別れて、Davidにお気に入りの図書館や公園を案内していただいた後、アイリッシュパブで美味しいソーセージとビールをご馳走に。一旦、ホテルに戻った後、今度は1人で美術館や雑貨屋などを見て回りました。

5日目の朝は、氷点下の極寒の中、ファーマーズマーケットを訪問。食品や手工芸品のブースが立ち並ぶ会場をひとまわりした上で、場内で販売していたコーヒーとシナモンペストリーで朝食。午後からは、吹雪いたり晴れたりとめまぐるしく変わるお天気の下、バスに乗って、街の北側のNorth Endに。ここは評判のカフェやレストラン、アート感覚溢れるファッション&雑貨の店が住宅地に点在する若者に人気のエリア。いくつかの店を見て、Davidオススメの「Fort Neadum Memorial Park」を訪れた後、ピザと白ワインで遅いランチを食べ、さんざん迷いながらも帰りのバス停を見つけ、ホテルに辿りつきました。

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ウォーターフロントの施設で開催されていたファーマーズマーケットと若者に人気のNorth End。見知らぬ土地への1人旅ならではの“探検”は何にも増してエキサイティングだ
ウォーターフロントの施設で開催されていたファーマーズマーケット(写真上)と若者に人気のNorth End(写真下)。見知らぬ土地への1人旅は、自分がスーパーマリオになった気分だ


6日目は、翌日早朝の飛行機で帰国するということで、実質的に稼働できる最終日。吹雪の中、午前中にはバケットリストに残されていたロブスターサンドイッチに挑戦、午後からはBrendaに連れられて、今回の旅のハイライトとも言える父が留学していた当時の旧校舎へ。これは1898年に建てられたと思しき歴史ある建物で、老朽化に伴い今は校舎としては使われておらず、ホラー映画の撮影に貸し出しているのですが、撮影が休みの日に内部を見学できるよう、あらかじめBrendaが手配してくれていました。

館内に足を踏み入れると、辺りには古びた香りが漂い、美しい細工を施した木製の玄関ドアや階段、巾木、昔ながらの暖房のラジエーターなどが目を引く一方、いくつかの部屋には撮影用機材が雑然と積み上げられていました。古びた電気スタンドや食器などの小物から、電気椅子さながらの家具、いかにもホラー映画に登場しそうな大きなノコギリやモップのような道具類、年季の入った衣装の間を縫うようにして、教室や集会場、学習室、図書館、校長室、トイレ、ボイラー室などを一巡。Brendaによると、貸し出し期間終了後は、古き良き時代の造作を活かしつつリノベーションし、校舎として再利用する計画だそうです。

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昔ながらの造作が美しい旧校舎は、今は映画の撮影に貸し出されているそう。映画が完成した暁には、何とかして観てみたいものだ
昔ながらの造作が美しい旧校舎は、今は映画の撮影に貸し出されているそう。映画が完成した暁には、何とかして観てみたいものだ

その日の夕方、Brendaと再び落ち合い、数日前にも訪れた歴史的なホテルのカフェでしばし談笑した後、毎年、この時期に市内の繁華街で開催されるという「Parade of Lights」を観に行きました。これはスポンサーごとにクリスマスの衣装を身に纏ったチームがパレードを繰り広げるもので、クリスマスマーケットと並んで、子どもからお年寄りまで、出身国もさまざまな住民達のこの季節の楽しみになっているようです。2人で1時間ほどパレードを見学した後、ホテルに戻り、翌日早朝の出発に向けて早めにベッドに入りました。

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「Parade of Lights」(写真上)と市内数カ所で開催されるクリスマスマーケット(写真下)は、子どもからお年寄りまで、出身国もさまざまな住民達のこの季節の楽しみになっている
「Parade of Lights」と市内数カ所で開催されるクリスマスマーケットは、子どもからお年寄りまで、出身国もさまざまな住民達のこの季節の楽しみになっている


■今回の旅を通して印象に残ったことは?
以上、今回の旅行を駆け足で振り返ってみましたが、最後にまとめとして、特に印象に残った2点を記しておきたいと思います。

1点目は、今回、お世話になった方々のご尽力で、当時の父の軌跡を辿ることができたこと。そもそもは“卒業生の娘”という以外に何の接点もない中、学校のWebサイトに連絡先が記されていたBrendaにeメールを送ったのが2024年秋口のこと。迷惑メールに振り分けられていたそれをようやくにして探し出してもらい、その後のeメールのやり取りを通して私の要望を伝えたところ、痒いところに手が届くような対応をしてくださったのです。

キャンパスの見学やクリスマス礼拝への参加など、私がリストアップした要望が叶えるために時間をかけて調整してくださったばかりか、Davidを初め関係者を総動員して父の情報をリサーチしてくださったこと、父が卒業式を挙げた教会や市内でも歴史のあるホテルなど、私のリストには含まれていなかったところにまでご案内いただいたことで、父の母校があるハリファックスを訪れてみたいという私の漠とした想いが、想像を遥かに超える心に残る旅となったことには、感謝の念が尽きません。

Pine Hill Divinity Hallの歴史をまとめた小冊子や卒業生たちの回想録など。今や卒業生も高齢になったり亡くなったりで、以前は開かれていた同窓会も開催されていないとのこと
Pine Hill Divinity Hallの歴史をまとめた小冊子や卒業生たちの回想録など。今や卒業生も高齢になったり亡くなったりで、以前は開かれていた同窓会も開催されていないとのこと


海外に渡る日本人が限られていた時代に、私の想像を遙かに上回る勇気をもって父がこの地への留学に挑んだであろうこと、現地で「Systematic Theology(組織神学)」においてジョン・J・コトラー牧師記念賞を受賞するなど優秀な成績を収めたこと、それにもかかわらず、危うい政情の中で按手式に現れなかったこと等々は、お二人の尽力なしには知り得ないことでした。さらに今回の旅を通して、BrendaとDavidという2人のカナダ人の友人をもつことができたのは、私にとって望外の喜びでした。

今回の旅で印象に残ったことの2点目は、ハリファックスの住民たちの優しさです。ホテルに戻るバス停を探してNorth Endをさまよっている最中、スマホが突然、ダウンした時には、複数の通行人がバス停の場所や路線番号、到着時間を調べてくれたし、吹雪の中で開店時間になってもオープンしないロブスターサンドイッチの店の前で凍えかけている私に、電話で問い合わせるためにスマホを貸してくれた近くのクリスマスマーケットのスタッフ、熱々のペパーミントティーを振る舞い、クリスマスマーケット出展者に配られたロゴ入りキャップを譲ってくれた女性など、この街の人々は優しさに満ち溢れていました。

帰りの飛行機の中、私は楽しかった旅の記憶を辿りながら、“ハリファックスの住民はなぜ優しいのか”に思いを巡らせていました。振り返ってみれば、空港からホテルに向かうタクシーの運転手がインドからの移民ならば、ホテルから空港に向かうタクシーの運転手はリビアからの移民。前述の熱々のペパーミントティーとロゴ入りキャップをプレゼントしてくれたのはフィリピン人。そのほかにもこの街には多国籍なレストランやカフェが立ち並んでいれば、そこで働く人々は肌の色もさまざまで、そこが多文化都市であることは旅行者である私にもすぐに実感できました。

ウクライナからの移民が経営するベーカリーカフェ。祖国の“おばあちゃんのレシピ”だというハリファックス名産の蜂蜜をふんだんに用いたケーキはとても優しい味
ウクライナからの移民が経営するベーカリーカフェ。祖国の“おばあちゃんのレシピ”だというハリファックス名産の蜂蜜をふんだんに用いたケーキはとても優しい味

ウォーターフロントにある「Peace by Chocolate」は、シリアから難民としてやって来たオーナーが経営するショコラティエ。その名が示すとおり、利益の3~5%を、Peace on Earthという団体を介して世界平和のための寄付に充てている
ウォーターフロントにある「Peace by Chocolate」は、シリアから難民としてやって来たオーナーが経営するショコラティエ。その名が示すとおり、利益の3~5%をPeace on Earthという団体に寄付することで、世界の平和に貢献している


私がこの地で最初に訪れた「Canada’s Immigration Museum」には、かつてこの国では移民たちに非人道的な扱いをしていたことが、自戒を込めて赤裸々に展示されていました。そして、そこで来場者への説明を担っていたのは、カナダの先住民と思しき風貌の1人の女性でした。この街の住民たちは、過去の幾重にも痛ましい経験に学ぶことで、国籍、性別、年代などの異なる人たちへの優しさを身に着けているのではないか。そんな想いがふつふつと沸いてきて、私は日本に向かう飛行機の中で涙を必死でこらえていました。

この地球上は、今なお差別や戦争で苦しんでいる人たちで溢れています。安全が脅かされたり、経済的に満たされない時には、人は他人に優しくする余裕を失いがちですが、国籍、性別、年代などの違いは、差別や闘いの契機になれば、他人に対する優しさの契機にもなる。つまりは、自身の辛く、苦しい体験は、差別や闘いの道を歩むか、多様性を受け入れるかのターニングポイントであり、この街に住む人々の多くは、移住当初の苦労を糧にして後者を選択しているのではないか。そんなことを考えながら、私は現実の待つ日本へと距離を縮めていったのです。

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「Canada’s Immigration Museum(移民歴史博物館)」では、かつての移民たちへの非人道的な扱いが、自戒を込めて展示されている
「Canada’s Immigration Museum(移民歴史博物館)」には、かつての移民たちへの非人道的な扱いが、自戒を込めて展示されている