2016年1月3日
新年おめでとうございます。昨年9月に「インタラクティブ☆マーケティングまとめサイト」をアップして3カ月、紙媒体用の編集ソフトからWordPressへのデータ移行に予想以上に手間がかかり、当初のスケジュール通りには記事の公開が進んでいませんが、マイペースながらも今年も作業を続けていきますので、よろしくお付き合いください。さて、新年1本目のコラムは、昨年、はじめてのクリスマス休暇を頂戴し、12月20日から約1週間にわたり訪問した、フランスのお土産話第一弾です。
今回の渡仏の主な目的は、フランスに渡って60年。今は執筆活動の傍ら南フランスのとある村での生活を謳歌する、齢85歳になる知人とその子供や孫たちを訪問すること。もうかれこれ数年前から何度となく誘われ、一度は遊びに行くと約束していたものの、月刊誌を発行している間はなかなか時間が取れず、昨年中にはなんとか約束を果たそうと12月20日から1週間ほどの日程で、同時多発テロ事件の衝撃も抜けやらぬフランスを訪問したのです。
当初は、パリを回避して、知人の住まいに近いマルセイユ空港に向かうことも検討したのですが、日本からの直行便がないことに加え、到着が深夜になりマルセイユに一泊せざるを得ないことなど、短期間の日程を考えるとデメリットも少なくなかったため、東京からパリに向かい、パリにある知人の娘の家に一泊した上で、翌朝、母親の家でクリスマスを過ごすという彼女らと共にフランスの新幹線であるTGVで南フランスに向かうことにしました。
私がパリを訪れたのは学生時代以来なので、約40年ぶり。その街並みは、40年前と大きく変わることはなく、さながらこの40年間に何事もなかったかのように、街中には古い石造りの建築物が並び、夜になるとエッフェル塔のサーチライトが市内を見渡すかのように辺りを照らしていました。大きく変わったのは、街往く人々の肌の色。かつてはそのほとんどが白人で、肌の色が異なるのは、路上を清掃するアフリカからの移民と思しき人々のみだったものが、アフリカや中東、アジアなど世界各国からの移民が大きく増加している様子が見てとれました。
空港に到着したのがすでに夕刻、翌朝には列車で南フランスに向かうとあって、パリ市内を歩いたのはわずか数時間ほど。限られた時間の中で最初に訪れたのは、今回の同時多発テロの舞台の1つとなったバタクラン劇場でした。知人の娘の家に荷物を置いて、メトロで数分のところにある同劇場を訪れると、そこにはおびただしい数の花束やキャンドルが供えられ、事件から38日を経たその日も、多くの人々が祈りを捧げていました。私も花束の上に、日本の神社で手に入れたお札をそっと置き、彼らに交じって、被害に遭われた方々のご冥福と、この国の平和を祈願してきました。
バタクラン劇場を後にし、知人の娘に誘われるままに次に訪れたのは、共和国の象徴とも言われるレピュブリック広場。彼女によると、同時多発テロ事件の後、誰に言われたわけでもないのに、人々は申し合わせたかのようにこの広場に自然に集まってきたのだとか。そこにもたくさんの花やキャンドルが供えられると共に、“テロにより痛めつけられたものの、自分たちはテロに屈することはない”旨のメッセージが大きく記されていました。そしてそのたくさんのキャンドルには、テロから1カ月以上を経たその日も、市井の人々により灯がともされ、何かを訴えかけるかのように、ゆらゆらと揺らめいていました。
日本でも取沙汰されている各種施設のセキュリティ体制については、空港での入国手続きこそ、予め身構えていただけに拍子抜けするほどにスムーズでしたが、レピュブリック広場に続いて訪れた国立近代美術館などが入るポンピドゥー・センターでは、入口でガードマンが入場者の手荷物検査を断行。翌朝、南フランス行きの列車に乗ったパリ リヨン駅でも、TGVの乗客を人手により1人1人チェックするなど、通常時とは異なる念入りなセキュリティ体制が採られていました。
以上、フランスお土産話の第一弾では、テロの爪痕も痛々しいパリの様子をお届けしました。ちなみに、私が訪れたバタクラン劇場はパリ市内ではかなり有名で、知人の娘も何度となく訪れた経験があるとのこと。フランス国内では、セキュリティの甘さと合わせて、同劇場がユダヤ人により経営されていたことが、テロのターゲットとされる一因になったという噂が取りざたされているそうです(ウィキペディアによると、このユダヤ人経営者は、今回の同時多発テロ事件の2カ月前に劇場を売却したが、以前から親イスラエル的なイベントを頻繁に開催していたとか)。
オリンピックを4年後に控え、インバウンド観光需要に湧く日本ですが、人口が減少傾向にある中、移民を積極的に受け入れるようになる日もそう遠くはないのかもしれません。その時に、他国の人々を“搾取”の対象とするのではなく、彼らと“共生”していくための道を探ることこそが、今、私たちに求められているのではないか。同時多発テロ直後のフランスを訪れて考えさせられたことの1つは、そんな日本の未来をめぐる問題だったのです。