日本語の乱れに思う

2005年4月25日

今日の東京は、お天気が悪くていまいちな気分だ。
ついこの間、桜が満開だと思ったら、今はつつじが見ごろ。
そしてもうすぐアジサイが見ごろになり、梅雨になる。
1年はあっという間だ。
先週、以前(と言っても、もう15年以上前だが)、
勤めていた調査会社の後輩に会った。
そこで話題になったのは、日本語の乱れ。
テレビなどでも盛んに取り上げられている若者言葉や
敬語が正しく使えない若者の存在、あるいは、
やたらカタカナの多い外資系企業の従業員のことなどを、
お互いが実際に出くわしたことのある例を引き合いに出しながら、
「ある、ある!」と盛り上がったのだ。
後輩との話を通じてつくづく感じたのは、
確かに言葉は時代とともに変化するものであり、
それを止めることはできないが、
言葉というものが相手に何か伝えるためにあるのならば、
少なくとも、相手に伝わるような言葉を
選ばないといけないということだ。
だから、最近の若者は伝統的(?)な日本語を知らなくても、
日々の生活に不自由はないのかもしれないけれど、
自分達よりも先輩の世代と話をするときは、
伝統的な日本語を使わないと意思疎通ができないし、
外資系企業の従業員も、例えば、この人には「優先順位」と言い、
この人には「プライオリティ」と言うなど、
相手のことを考えて言葉を選ぶ必要があると思う。
そしてこれは、弊誌の取材活動にも通じることだと思う。
私は、外資系企業に取材するときは、カタカナを多用するし、
純日本系企業に取材するときは、
なるべくカタカナを避けて表現するように心がけている。
そうした言葉使いを含め、相手の立場に立って考えること
(例えば、相手がメーカーならばメーカーの立場、
販促担当者なら販促の視点)が、良い取材に繋がるのだ。
相手の立場に立つことはコミュニケーションの基本であり、
何を今さら・・・と思われるかもしれない。
しかし、若者の日本語の乱れは、日本語の問題である以上に、
コミュニケーションそのものの問題なのではないだろうか。